SEIKO DNA
創業者の信条
創業者
服部 金太郎
大切な時を刻む、
みんなのための時計をつくりたい。
幼少期に時計に魅了され、
来る日も来る日も時計の技術を学び修理に没頭。
21歳、小さな時計店を開き、
その10年後に時計の製造工場『精工舎』をつくり、
掛け時計の製造を始めたのがSEIKOの原点です。
それ以来、日本の時計産業の近代化をけん引し、
「東洋の時計王」と呼ばれた服部金太郎が残した
言葉・精神は現代の社員一人ひとりに
継承されています。
「すべて商人は、世間より一歩先に進む必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先に進みすぎると、世間とあまり離れて預言者に近くなってしまう。商人が預言者になってしまってはいけない。」
「自分は、他の人が仲間同志で商売をしているときに、外国商館から仕入れを始め、他人が商館取引を始めたときには、外国から直接輸入をしていた。他人が直輸入を始めたときには、こちらはもう自分の手で製造を始めていた。そうしてまた他人が製造を始めたときには、他より一歩進めた製品を出すことにつとめていた。」
金太郎は人生の教訓を求められた時には、「急ぐな休むな」と言っている。
「向上心は何処までも持っていて、一歩一歩少しずつでも急がず休まずに働いていった方がよい。」
「無理に焦って仕損じるよりも、永く持続して飽かずたゆまずやっていく方がよい。」
「急げば休まなければならぬ。休まず進まんとすれば急いではならぬ。」
金太郎は精工舎創業時から「精巧な時計をつくる」ことを固く決意していた。製造会社を「精工舎」と命名したことにも並々ならぬ決意がうかがえる。
そして、良品こそが顧客の信頼をえて、事業が成り立つという強い信念を持っていた。
「精巧な良品づくり」こそが、日本に時計産業を興し、後世に事業を残すという高い志を実現するもっとも大切な道であると考えていた。
社会貢献の精神
1923年9月1日、関東大震災によって東京の時が止まりました。
服部金太郎は店も工場も機械も、修理のために預かっていた1,500個の時計も、全てを失いました。
ゼロからの再出発。
金太郎は真っ先に顧客の焼け焦げた時計を無償で同等の新品に交換。
工場を再開後に従業員を再雇用しました。震災直後の未曾有の混乱の中、金太郎のお客さま・社員への目線はぶれることはありませんでした。それは人々の生活を取り戻すための大切な一歩となりました。
金太郎は震災前に建てた銀座の時計塔の再建にも取り組みます。
街の時を刻む2代目の時計塔です。
それは震災から復興を遂げた銀座のシンボルとして、人々の希望となり現在も街の時を刻み続けているのです。
修理預かりの懐中時計
企業理念
常にお客さま本位の姿勢を大切にし、
質の高い商品・サービスを提供します。
お客さまに育てられてきた
SEIKOブランドの価値をさらに高めます。
経営の透明性・公正性を一層高め、
環境への配慮に努めます。